火も薬も使わずに起きる変化

もし君が異世界に転生して、街のパン屋や酒場を任されたら。小麦粉に水を混ぜて置いておくと、生地がふっくら膨らむ。潰したブドウを樽に入れておくと、いつのまにか酒になる。火も薬も使っていないのに、なぜこんなことが起きるのか。その正体が発酵だ。今日は、発酵という現象そのものの仕組みを解き明かしていく。
発酵とは空気なしでエネルギーを得ること

発酵を一言でいうと、微生物が空気を使わずにエネルギーを取り出す手段だ。人も微生物も、生きるには糖を分解してエネルギーを作る。空気、つまり酸素がたっぷりあれば、糖を最後まで燃やして水と二酸化炭素に変えられる。これが呼吸だ。ところが、ふたを閉じた樽の底には酸素が届かない。そこで微生物は、別のやり方に切り替える。
呼吸と発酵のちがい
呼吸と発酵のちがいは、糖を燃やしきるかどうかだ。呼吸は糖を最後まで分解するので、取り出せるエネルギーが大きい。そのかわり酸素が要る。発酵は途中で分解を止めるので、エネルギーはわずかしか取れないが、酸素は要らない。ここが肝心なところで、発酵では糖のエネルギーの大半が、燃えかすの中に残ったままになる。
燃えかすが人間のごちそうになる

微生物にとっては、発酵は効率の悪い、苦しまぎれの節約術だ。ところが人間から見ると話は逆になる。糖のエネルギーを抱えたまま残る燃えかす、それが乳酸やアルコールや炭酸ガスだからだ。酸っぱさと保存性、酒の酔い、パンの気泡。どれも微生物の出したカスを、人間がありがたく受け取っているにすぎない。
燃えかす① 乳酸
燃えかすの一つ目が乳酸だ。乳酸菌は糖を取り込んで、主に乳酸を吐き出す。種類によっては、乳酸に少しのアルコールと炭酸ガスが混じることもある。乳酸がたまると樽の中はどんどん酸っぱくなり、酸性度が上がっていく。酸に弱い腐敗菌や食あたりの菌は、この酸っぱい環境ではもう生きられない。漬物やヨーグルトの保存は、この酸の壁でできている。
燃えかす② アルコール
燃えかすの二つ目がアルコールだ。酵母というカビの仲間は、糖をアルコールと炭酸ガスの二つに変える。同じ反応なのに、使いたい相手は場面で分かれる。パンでは炭酸ガスが主役で、生地の中にたまった泡が膨らみのもとになり、アルコールは焼くときに飛ぶ。酒では逆に、アルコールが主役で、ガスは抜けていく。
発酵と腐敗の境界線

ではなぜ、発酵は腐敗にならないのか。実は発酵も腐敗も、微生物が食べ物を分解している点では同じだ。分かれ目は二つ。どの微生物が主導権を握るか、そして何ができるか。乳酸やアルコールを出す菌が先に増えれば、まわりは酸性やアルコール性になり、あとから来る腐敗菌は住みつけない。逆に腐敗菌が先に広がると、鼻を刺すにおいになる。先に住み着いたもの勝ちなんだ。
良い菌に先手を取らせる
だからこそ、仕込みの最初に良い菌をたっぷり入れる。前にうまくいった樽の中身を一すくい残して次に足す、パン種を分けてもらう。数で圧倒して先手を取るためだ。あわせて、ふたをして酸素を断つ、塩を効かせる、涼しい場所に置く。これで腐敗菌に不利な場を作り、乳酸菌や酵母をあと押しする。野生の菌任せは博打になる。
実践① どこで効くか

ここからは異世界での実践編だ。まず使いどころ。パン職人なら、酵母を絶やさず飼い続けて、毎朝ふくらんだパンを焼く。醸造人なら、果実や穀物から酒を造る。村人なら、乳をヨーグルトやチーズに、秋の野菜を乳酸発酵の漬物に変えて、冬の食料にする。冒険者なら、酸っぱくて日持ちする漬物が、軽い携行食になる。
実践② 要るものと元手
始めるのに要るものは多くない。糖をふくむ材料、種となる菌、空気を断てる甕か樽と重石、そして涼しい場所。逆に、火や複雑な道具はいらない。乳酸発酵なら、塩と樽さえあればほぼ始められる。アルコール発酵は、糖の多い果実ならそのまま、麦や米なら麦芽か麹でデンプンを先に糖へ変える一手間がいる。
実践③ 工夫と効果の程度
その世界流の工夫はこうだ。いきなり大樽で仕込まず、小さな器でいくつか試す。種は多めに入れる。温度は、乳酸発酵とパンはやや暖かめ、酒は涼しめが向く。効果の目安は大きい。生の葉物野菜が数日でしなびるのに対し、乳酸発酵の漬物なら数ヶ月。搾りたての乳は一日でだめになるが、かたいチーズなら一年はもつ。糖の多い果汁も数日で腐るところ、酒にすれば年の単位でもつ。
実践④ 次の一手とまとめ

これができたら、次の一手がある。乳酸発酵を覚えたら、酢を造る酢酸発酵へ。アルコールが造れたら、蒸留でもっと強い酒や、傷の消毒に使えるアルコールへ。まとめよう。発酵とは、微生物が空気なしでエネルギーを得るための裏技で、その燃えかすが乳酸やアルコールだ。良い菌に先手を取らせれば、そのカスがそのまま腐敗を防ぐ壁になる。塩と樽と少しの根気があれば、君は異世界の食卓を作り替えられる。
参考・出典
- Fermentation (biochemistry)(Encyclopaedia Britannica)
- 清酒の製造工程(国税庁)
- 発酵食品(e-ヘルスネット(厚生労働省))